哲学的雑談 3
「恋の終わりの儀式」
(これはある先生と弟子の会話です)
(先生) 最近の若い人達は携帯メールで「別れ話」を
するようだね。
(弟子) そうですよ。「別れましょう」と言うメールが来て、
「うん、別れよう」で終わるのはまだ良い方で、メールが
来ても返信しないで、それでおしまいとか・・・。
(先生) 壮絶な光景だな。
しかし、こういうかたちで人間関係を終止させることは
あまり良いことではないぞ。恋が終わる時には、ちゃん
とした手順を踏んで、「終わりの儀式」をしておかないと、
あとあと「祟る」ものなのだ。
(弟子) なんですか?「終わりの儀式」っていうのは?
(先生) そういうものがあるのだよ。君らは若いからまだ
気付かないだろうが、人間の濃密な情念と言うのは放っ
ておくと、物質化する。そして心身に直接作用して、それ
を損なう事がある。ネガティブな情念が災禍をなさない様
にする為には、特別な儀礼をして、それを鎮める事が
必要なのだ。
(弟子) オカルトっぽいですね。
(先生) オカルトじゃないよ。それが人間の文化なんだから。
人間は死んだ者を弔う。死を弔う葬儀を持たない人間集団
は歴史上に存在しない。と言うより、人類学的に言うと、「死者
を弔うもの」というのが人類の究極の定義なのだ。死んだ者を
弔い、それが甦って生者に禍をなさない様に鎮める儀式を
持つ事によって、旧石器時代に人類はサルと袂を分かった
のだからね。「終わった恋」も、ある意味では「死んだもの」だ。
だから、それが災禍をもたらさない様にする為には、きちんと
弔う事が必要だ。
感情は物質化すると言う事は君にも実感できるだろう。例えば
「邪眼」についての信憑は世界中に存在する。敵意を含んだ
視線で見つめられると禍が起こると言う迷信だ。誰に見つめ
られようと、生理学的には痛くも痒くもないはずだ。にもかか
わらず、憎しみを込めた目で見つめられると、私達は確かに
ある種の「痛み」を覚える。背中に「殺気」を感じて振り返ると
言うような事が私達の身には時々起こるのだ。
(弟子) ほんとうですか?
(先生) ほんとうだってば。と言うのも敬意を含んだ視線を感知
すると言うのは、人類にとって重要な生存戦略の一つなんだから。
一つ分かり易い例を挙げよう。「ハンカチ落とし」と言う遊びがある
だろう。円陣を組んで座っている人達の後ろを「鬼」がくるくる回り
1人の背後にハンカチを落として、一周回る間に気が付かなければ
負けと言うゲームだ。
(弟子) 知っていますよ。幼稚園の時にやったから。
(先生) あれは人間のどういう能力を開発する為のゲームだと思う?
(弟子) あれって能力を開発するゲームなんですか?
(先生) そうだよ。あらゆる遊戯には人類学的な意味がある。
子供の遊戯の場合は、その多くが教育的な意味を持っているものだ。
ハンカチは見えないし、落ちても音がしない。だから「ハンカチ落とし」
で、プレイヤーには視覚的聴覚的情報は何も与えられない。
でも勘のいい子は結構素早く(場合によってはハンカチが着地
する前に)自分の後ろにハンカチが落とされた事を感知できる。
この子は何を感知したのだと思う?
視覚像でも音響でも触覚でもない。プレイヤーが感知するのは、
「この子の後ろにハンカチを落としてやろう」と言う「鬼」の心に
浮かんだ一瞬の「邪念」だ。勘のいい子にはそれが感知できる。
と言うのは「邪念」と言うのがすでにある程度の物質性を帯びて
いるからだ。だってそうだろ。人間が興奮したり、恐怖したり、
緊張したりするときには、必ずそれが身体的に徴候化する
ものだからね。呼吸、心拍数、発汗、体臭・・・そういう身体信号
は微妙に変化する。これは誰でも知っている生理的事実だ。
現に嘘発見器はその原理を応用した物だ。
だから身体感受性の高い子は、「鬼」の身体から発信される
一瞬の身体信号の変化を感知できる。
「ハンカチ落とし」とか「隠れん坊」とか「鬼ごっこ」というのは
本来人間の身体が発信するそういう微細な信号を受信する
事が出来る身体感受性を高める為のエクササイズなのだ。
昔の人は、そういう感受性が「生き延びる為」の重要な能力
である事を知っていたのだ。
悪意や敵意のようなマイナスの感情は、特に身体信号の
輪郭がハッキリしている。それを感知する力は肉食動物や
敵対的な部族と命がけで共存していた時代には必須の
ものだ。身体感受性の高い個体は、危険な信号を察知
して、速やかに回避行動や防御措置を講じる事が出来る。
逆に、身体感受性が鈍感な人間は、切迫している敵意や
憎悪や嫉妬を感知する事が出来ない。
現代社会には、いきなり襲いかかってくるような肉食獣は
いないけれど、それでも敵意や邪念は存在する。そういう
「マイナスのオーラ」の無防備に身をさらす事が生体にとって
危険である事は旧石器時代も今も変わりはしない。
「マイナスのオーラ」は、確かに微弱な身体信号にすぎない。
でも、それに対する防御措置をとらないと、弱い酸に侵される
ように、人間の心身はゆっくり、しかし確実に損なわれ、
次第に生気を奪われる事になるのだ。
より厳密に言えば「生気を奪われる」という感じがしない人間
は長生きできないのだ。その「感じ」は普通の身体的苦痛と
同じ機能を果たしている。考えれば分かるけど、痛みを感じ
ない人間はすぐに死ぬ。だってそうだろ。骨が折れても痛く
ない、傷口から出血していても何も感じない人間は、自分の
身体が壊死して腐り始めても気が付かないんだから。
すぐ死んじゃうよ。
(弟子) それは分かりましたけれど、それと恋の終わりと
どういう関係があるのですか?
(先生) 恋愛が終わる時にも、そこには必ず微弱だけれど
執拗な「マイナスのオーラ」が生成する。これは避ける事が
出来ない。
(弟子) どうしてですか?
(先生) そのプロセスを説明しよう。君の恋がある日終わりを
迎えたとする。この場合、君は必ず自責の念を感じる。必ず
感じる。例外は無い。「私が悪かったの・・・あの時あんな事
さえしなければ・・・くよくよ」という心的過程が君の内部に必ず
形成されるのだ。
(弟子) そんな事ありませんよ。「あいつって最低!私の不幸
の全てはあいつのせいよ!」と言ってみせますから。
(先生) そんな事はできやしないのだ。だって、たとえ彼氏に
全責任を転嫁したとしても、君が他ならぬそのような男を選ん
だと言う事実に変わりは無いんだから。相手の男がろくでもな
い男であればあるほど、よりによってそんな最低な男を選んだ
と言う君の愚鈍さと不見識についての自責の念は昂進する
ことになる。
(弟子) あ、そうか・・・そうですよね。
(先生) 自責と後悔は心的ストレスの中で、一番腐食性が
強いものだ。と言うのは、そこでは1人の人間が「検察官」
であると同時に「被告」でもあるからだ。この「検察官」は
「被告」が本当は何をしたか、何を思ったかを熟知している。
(だって自分なんだもん)
だから、「被告」の全ての嘘を見破り、全ての言い逃れを
封じる事が出来る。この全知の「検察官」によるエンドレス
の尋問に私達は耐える事が出来ない。だから、心的負荷が
限界を超えると、私達は「検察官」を自分の外に移すという
奇手に出る。「検察官」の役を「私ならざるもの」に振って
しまうのだ。これは弱い人間が必ず選ぶ逃げ道だ。
この様にして外部に想像的に措定された「私の悪行非行
を執拗に糾弾し続けるもの」これを何と呼ぶか知っているかね。
(弟子) 想像もつきませんね。
(先生) 悪霊だよ。フロイトの「トーテムとタブー」によれば、
自責の念が無意識のうちに外部に人格化したもの、それが
悪霊なのだ。恋の終わりにも、必ず後悔と自責の思いが発生
する。他人に対しては、どれほど自分に都合の良い言い訳を
する人間でも、自分のしでかした過ちは知っている。他人は
騙せるが自分は騙せない。それを隠し続ければ、その自責
感は必ず悪霊に変化するのだ。
(弟子) 怖い・・・
(先生) 怖いよ。だから恋の終わりにはそれにふさわしい
弔いの儀式が必要だと申し上げているのだ。恋の痛手から
立ち直る為には、自分を責める気持ちをいったん悪霊に移
して、それを「祓う」というややこしい手順をふまなければな
らない。そういう迂回をすれば、悪霊と共に自責感も消える。
そしてはじめて君は新しい恋に向って踏み出す事が出来るのだ。
(弟子) 弔いの儀式って、何をしたらいいんですか?
(先生) やっと真剣になってきたな。儀式といっても、大した事
はないんだ。恋がうまく行かなくなった責任を二人以外の所に
転嫁して、それを相互承認するだけで良い。
恋愛の弔いとは、何よりもまず、その破綻の原因を当事者以外
に転嫁する事だ。さっきも言ったように、相手のせいにしたら、
必ずそれは自分のせいになって戻って来るからね。一番良い
のは、当事者にはどうしようもない条件をつけることだ。
「もう三十年前に会っていれば・・・」とか、「僕がアメリカ人だった
ら・・・」「あんな親じゃない親から生れていれば・・・」と言うような
類のでたらめな想定をして、「それだったら上手くいったのにね」
とうなずきあって、責任を外部に丸投げしてしまうのだ。
それから二人で昔よく通った店に行って、黙ってコーヒーでも
飲みながら「あの夏の事は一生忘れないよ」とか「幸せになってね」
とか「この指輪返すわ・・・」「いいよドブにでも棄ててくれ」と言うよう
な寒いセリフをやりとりするだけでよい。
葬式というのが定型的である程よいのと同じ様に、「別れの儀式」
もできる限り非個性的であることが好ましいのだ。
携帯メールで恋を終わらせてはならないと私が言った理由が
もうお分かりになっただろう。どれほどクールでエゴイスティック
な人間でも自責感からは逃れられない。正しく弔われなかった
悪霊は必ず立ち帰って来る。そして、悪霊が憑いた人は、
無意識のうちに自分自身に罰を与える様にふるまってしまう
のだ。(不健康な生活をする、わざと人に嫌われるような言動
を繰り返す、同じタイプの最低男を恋人に選び続ける・・・)
恋の悪霊なんて、本当は何処にも存在しない。私達を
傷付けるのは、いつだって私達自身なのだ。
(内田 樹 神戸女学院大教授)